#1 死生観
もちもち。よじはむです。
突然ですが死は悲しいものだそうで、みんな何かしらが死ぬとめっちゃ泣くよね。
僕もうダメなんすよね。本当あの空気と言うか、号泣してる人みると滅茶苦茶引いちゃうんですよ。うわぁ…って。
僕自身は悲しいとか辛いとかじゃなくて、「だよね」って気持ちでいるんで、目の前であからさまに感情を爆発させられると正直こわい。
丁度そんな事を思うエピソードがあって、去年産まれてから散々世話になってた(家庭環境が複雑な為今度話す)おじいちゃんがサクっと死んじゃって、まぁ大変だったんだよね。
正月の朝、大パニクりしたおばぁちゃんが「救急車!何番だっけ!!!」って僕に電話してきまして、僕もホラ、寝起きだし高卒なんで「シラネ!ググルワ!」っつってGoogle検索したんですよね。 救急車 番号 って。119らしいです。みんな覚えた?119だよ。
そんでとりあえず様子見に行ったらおじいちゃんが半瀕死になってて、マジでウケたんで「ウケるw死にそうじゃんw」っつったら超真顔で一言「死ぬ」って言うわけ。ガチやん。引くわ。
って引いてたら救急車きた。救急車ってめっちゃ早いんすね。3分くらいで来た。
正月だってーのにシャキッとした隊員がしなしなのおじいちゃんをシャキッと運んでくれた。
病院ついて検査したら結局コロナじゃないタイプの鬼肺炎だったらしくて、レントゲンで撮った片肺が鬼真っ白になっててそこでもウケた。一人で笑ってたら別居してる母ちゃんと先生に怒られた。なんで?
で、まぁその後は都合の良いのか悪いのかコロナのせいで全く合わせてもらえなくて、半月後くらいに病院に呼ばれてよ。久しぶり〜って病室入ったら、もうモルヒネぶっ込んでて素人が見ても完全にあかん感じになってるわけ。先生にダメっすか?って聞いてもボカすわけよ。
しょうがないからバイタルっての?写真撮って看護師の義妹に送って教えを乞うたら、もって夜だと。
おじいちゃん今際ナウじゃん。先生そう言ってくれや。
そのあとまぁ夜まで持たずに死んじゃったんだけどね。もうみんな大爆泣きなわけ。うちの子供すら泣いてるのよ。
俺?静見。死んじゃったな〜。って思った。
母ちゃんとかもう凄まじいわけ。別居してんのに。お父さん〜〜〜っつって。
我、静見。死んじゃったな〜って思ってた。
冷静に場を分析してた。
まぁその後葬儀とか親戚とかクッッッソ色々大変だったけど割愛。詳しく言わないけど人間は人間によって地獄をもたらされてるんだなと思った。
ただ世にはこんなスタンダードな病死じゃなくて、自分で殺しちゃったりするのもあるじゃない?
側から見てるとおじいちゃんは割と人生通りのスタンダード病死で良かったと思う。普通の人だったから。
人の死についてはここで終わり。次は言葉を喋らない動物の死について。
おじいちゃんの死から前の年に遡るんだけど、ペットのウサギが病気になって、おしっこ垂れ流しになってたのね。
俺も家内美化に努めろよ〜とかいいつつ毎日風呂入れたりそれなりに世話はしてたんだけどお風呂終わった後に拭いてたら突然死んじゃってさ。
多分しんどい体には負担が大きかったんだと思う。未だに後悔してるし、俺が殺したんだと思ってる。このことについては最低でも死ぬまで思い出すんだと思う。
死んじゃった後ペット火葬の所を調べて家族みんなで車で行った。
道中上ん子がトイストーリーの 俺〜がついてるぜ〜みたいな曲歌って死ぬ程泣くの我慢した。この時はまだちゃんと悲しかった。
優しい坊さんで、手厚く焼いてくれた。
人と違ったのはオーブンが小ぶりだから、余計「あそこで今から焼くんだ」感が出て妙にリアルでよ。もの悲しかった。
オーブンから出てきたペットのウサギは当然だけど入った時よりずっと細くなって出てきて、太めの水筒みたいな骨壷に入っちゃうくらいだった。喪失感みたいなのがあった。
それは持って帰って今も寝室のウォークインの一番高いところに飾ってある。
その骨壷を飾る時に、骨壷だけじゃ寂しいからいつものご飯入れと、水を汲んで置いておこうと思って、水を汲んでる時に涙が溢れて来たんよ。本当にビックリした。最後に自然に泣いたのなんて小学生の頃先生に怒られた時だったから。わけがわからなかった。
今、冷静になって思うのは、そん時泣いた理由は水を入れてくれるのはいつもカミさんだったからだと思う。
多分もっと可愛がれた。もっと甲斐甲斐しく世話出来た。色んなところに遊びに行けた。って後悔が溢れたに違いない。だって言葉を喋れない大好きな相手に対しては自分の想像でどうにか幸せになってもらうしかないから。
ウサギ、マチルダって言うんだけど、マチルダに関してはカミさんが連れてきたウサギだから、世話がタスクだと思ってたけど死んだ後に大好きだった事を知ったんだよね。
ひとしきり泣いて、家族に見せないようにいつも通りに戻って、落ち着いた頃に一つ一つ整理したら答えが出た。完全にバグった。でも限りなく正解が出た。悲しみは、なんてひどいエゴイズムから来るのだろうと。
自らの死。死と言う当事者が持つ他人には触れられない唯一の神聖な箇所。かつ誰も逃れられない、何億回と繰り返してきた死と言うものについて他者がその他者の感情を勝手に介入させて勝手に悲しんで勝手に満足してまた日常に戻ると言う酷いエゴイズム。
またその死んだモノ、無くなっちゃったモノについて悲しいものなんだと言う空気、悲しまなければ異常だなんて無礼が罷り通る世界。
俺がウサギに対して向けた悲しいと言うエゴイズムは産まれてから沢山の情報が介入し自然と刻まれて居た考えなんだけど、きっと世界的には間違っていないはず。
僕は深く考えることで弔った。同時に自分のマインドを全部書き換える程膨大なアップデートが起こった。
死について安易に悲しいと言う感情を直結して思うことを辞めた。
故に、生きとし生ける全てのものが死に、産まれる事について当たり前だと言う以外何一つ思わなくなった。
アップデートの甲斐あって、おじいちゃんの死はフラットに受け入れられた。彼らの死は変えの効かない彼らの物なので、僕はフラットに捉える。自分は自分で勝手に吸収することで彼らがいた頃とはまた別の日常に戻る。
ただ、これはエゴな、余分な話なんだけど、唯一子供の死だけは乗り越えることも吸収する事も出来ずに立ち往生すると思う。善悪の屑って漫画でカモさんも言ってたし間違いないと思う。きっと親は人格も同時にその時に一緒に死んでしまうんだと思う。奇跡的に人格が生きていればきっとそれは世界で一番不幸な幸せだ。
故に子供が危ない事をするとカンカンに怒るんだ。結局、自分のために。
僕はかつて自殺しようと思い立った時からどう死んだら満足できるかをよく考える。
一番参考になったのが、「THE LAST OF US」と言うゲームだ。
- 感染者の最終段階。ブローターからさらに感染が進み、生命活動を終えて死亡した後の姿(ブローターになる前の感染者も、死亡すると同じ姿になる)。死んだ場所と一体化していき、キノコのような物体や触手が生える。この状態になると胞子を大量に散布し始めるので、付近を通る際はガスマスクが必要になる。
- wikiより
- 傍迷惑なヤツである。けど僕はコロニーに最終目標を見出した。
- この自然に溶けて死んでいく様はとても綺麗だなって素直に思う。自分は確かにここに居て、そして間違いなくそこで死んだって。
- 現代で、僕が死ぬ頃には流石にTHE LAST OF USみたいにはならないけど、あの棺桶に入れる仰々しい花は入れないで欲しいな。
- カミさんには藤を一輪だけ入れといてもらうように頼んだんだけど覚えててくれるかしら。
- 頼むから僕が死んだ時は誰も慌てないで欲しい。死んだな。って感じで。
- また僕が居ない日常に戻って、その頃には増えているであろう残した作品が胞子の様に飛んで行くように、日々。
- 死なんて、このまとめみたいなカジュアルさが丁度いいんだよきっと。